馬上の姫君
第一章 夕映えの鞆の浦
天正五年十月、松永久秀は平蜘蛛の茶釜とともに信貴山城に爆死した。音羽に逼塞中の佐々木承禎(義賢は出家して抜閑斎承禎を号した)は、信長の伊賀侵攻も間近と判断して、末娘である久野姫を北畠に嫁いだ姉の波野姫を頼らせるため野津監物丞を案内に付けて鞆の津へ逃した。伊勢を追われた夫北畠具親が鞆の津滞在の足利義昭のもとに身を寄せていたからだ。それに、兄の義治が将軍後見役として鞆の仮幕舎にいた。
甲賀で義昭に刺客を放った義治がこの地位にあるのだから、戦国の世の激変が偲ばれる。
 
過去に拘れば今が生きられぬ。昨日の敵は今日の友なのだ。
 
波野姫は男子を出産したばかりの頃で、鞆で生まれたその子は鞆麿と名付けられた。公家風の名前であるのは、北畠氏が公家の出自であったことによる。
具親は還俗して、お家再興に乗り出した身であるが、鉄中砦に敗戦した頃から、できれば公家に戻り平穏に過ごしたいと願うようになっていた。
妻の波野姫は鞆麿出産後の肥立ちもよく、回復するとすぐに乗馬して浜辺を駆けた。
妹久野姫も鞆に来てから、従兄弟にあたる武田五郎信景と語らう機会も増え、精彩を取り戻していた。音羽にいた頃は草木染や機織りに精を出す余り閉じ籠もりがちな久野姫であったのだが、瀬戸内の陽光が姫を明るく活発にさせたのか内気さは影を潜めた。



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