馬上の姫君
第八章 波野姫の最期
 御台屋敷はそのまま欠所として放置してあった。周辺の人々は与志摩の帰郷を喜び、進んで屋敷の修理に力を貸した。二、三日もすると、十分に住めるようになったので、伊賀の住民が信長死後、故郷に戻ったように、与志摩も御台屋敷に戻る決意を固め、安全を確認して與次郎を玉置山の皆のもとに迎えに遣った。
 
 与志摩の所へ具親から誘いがあったのは十月になってからである。しかし、御台屋敷には亀寿丸、若葉、お槇、お多紀らをすでに引き取っていて、慎重に行動しなければならない時期にあった。
『…信長が死んだとて、信雄がすぐ滅びるとは思えぬ。再び具親殿が、お家再興の旗揚げをして信雄と戦うことがあったとしても、そなたや與次郎、そして亀寿丸は軽々に味方してはならぬ。苦行が成就して後世の契約が叶った今、二度と殺生をしてはならぬ。慈悲に背けば、修羅の道に落とされて生きねばならぬ。そなたらはこの麗しき村里で心やすらかに生きるのじゃ。そして妹の菩提を弔ってほしい…』
 与志摩は與次郎とともに戒(いまし)めとして心に刻みつけている承禎の言葉を具親の使者に告げて、再度の旗揚げは、客観的に見ても困難であることを説いた。
「好機到来するまで時世を窺い、今回は思い止まるように申し上げよ」
 与志摩の返事を聞いて具親は落胆するが、二、三日たっと、逆に、勇気づけられる出来事が起こった。それは山崎の戦いで行方知れずとなっていた鳥屋尾内蔵之助義信が五箇篠山城に駆けつけてくれたことである。
このことは安保一族をも元気づけることになり、直親の弟左門や一族の次郎市、左馬允それに旧臣岸江大炊助、稲尾雅楽助らが熱心に南伊勢の義故に説いて回った結果、一緒に戦ってくれる恩顧の者も徐々にではあるが集まるようになってきた。
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