硝子の靴 ~夜帝の紅い薔薇~少女A~
彼の優しい手に促され、私は、エレベーターを降りた。

降りた瞬間、傍に誰かが立っているのに気づいて、私は、内心驚き気味に、その方を見た。

黒髪を格好良くセットした男の人がひとり、エレベーターの扉の横に立って、押しボタンを押していた。

【あ、…なるほど。扉が閉まらないように…】

私は、心の中で納得する。

私が見ていると、その男の人は、うつ向き加減のまま、会釈をした。

私も、会釈をする。

男の人が押しボタンから指を外すと、エレベーターの扉は、静かに閉まった。


「社長。お疲れ様です」

男の人は、慎ましい物腰で、七海 龍星に挨拶をした。

「御苦労様」

七海 龍星の言葉に会釈をして、男の人は、雑巾とスプレーの様なものを手に、その場所から立ち去り、何の部屋かは知らないが、扉の中へと入って行った。
その後ろ姿を見ながら、私は、ポツリと尋ねた。

「あの人は、ボタンを押すためだけに?」

わざわざそのために、向こうの部屋から来たのなら、何て気配りのできる人なのだろうと、私は思っていた。

「ここを掃除していて、エレベーターが上がってくるのに気が付いたんじゃない?」

「あぁ」

私は、納得する。

「でも、彼なら、他の部屋に居ても、気付いたかも。彼は、よく気が利く人なんだ。中には、ここにいても気付かないやつもいるからね。エレベーターが開いて、まだ人が降りていないのに扉が閉まりそうになっても、何も思わないやつも。色々さ。ま、社員に差がない様に努めてるつもりだけどね。そんなに酷いやつもいないけど」

「へぇ…」

私は感心しながら、男の人が入って行った部屋の扉を見ていた。

「気になる?」

「へ?」

七海 龍星からの予想もしない質問に、私は、突拍子もない声が出てしまった。
ただ、私は、感心していただけだったから。

彼を見ると、彼は、私を見つめてニヒルな笑みをした。
そして、私の目を見つめる。

そんな彼を見ながら、私は、淡々と答えた。

「いいえ」

彼は、視線を外す。

私の返事を聞くと、間をあけずに直ぐに話だした。

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