世界の説明書
 テレビの中では世界を憂いているといった聖人面した男女のコメンテーターが最近の若者が切れやすい理屈を、年老いた己の若い肉体に対する嫉妬心を、一般常識で包み込んで、世界中の若者にぶちまけていた。犯人は五十歳前後だというのに。

「今日は会社近くのケーキ屋で名子の好きなモンブラン買ってきたから、早速食べようか。」

「うん、ママの分もちゃんと買ってきた?。」

「もちろん、ママには、モンブランと紅茶も買ってきたからな。ママはこのアールグレイティーが大好きなんだ。」

「知ってるもん。アールグレイティーって本当にいい香だよね、すっきりしていて、どこか懐かしくて、でも毎回初めて、という感じの香。名子も大好き。私も、モンブランと紅茶にしてね。」

「分かった、分かった、じゃパパはコーヒーにしようかな。」正人は笑顔で答えていたが、二日前に警察からかかってきた電話が未だに心に引っ掛かっていた。何故あの時、妻の事件かと尋ねた瞬間に相手は電話を切ったのだろう。まさか、自分が何か疑われているのではないか。犯人はあの場で死んでいたではないか。様々な疑問が心に浮かんできた。そして、ふと名子の方を見れば、名子は無言で「それ禁止。」と言っていた。そうだ、疑うな、世界に答えを求めるなと正人は明子の為に紅茶を入れた。
 その香で、先ほどの血なまぐさいニュースを聞いていた時に感じたやるせなさはとっくに消えていた。、香る紅茶が世界を清潔に変えた。この世界は、それを見る者の目線や心で、その形を変えていく。誰も、世界に縛られはしないし、世界は私達に期待などしない。世界が変わる瞬間、それはきっとそれを眺める人の何かが変わった瞬間だ。
 正人は自分のせいでもう世界が暗く、闇の閉ざされないように必死に、明るく、元気に努めていた。たくましく、美しく成長していく名子を見ながら、
明子、私達の娘はこんなに輝いているぞ。世界が彼女の為に微笑んでいる、お前もそこから私達を見守っていてくれよ。 と心の中で哀願した。名子の透き通るほどの白い肌に、ほんのり紅茶の温度で赤みが差し、真黒の髪が世界中の闇を薄くした。ベランダの外でこつ、と控えめに何かに躓く足音が聞こえた。 仲良く話しをしている名子と正人には聞こえるはずもないほど小さく。
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