恋時雨~恋、ときどき、涙~
走るのは、こう見えても得意だ。


耳が聴こえないわりに、走るのは幼い頃から得意だ。


でも、今日ほど体が軽いと思ったことはないかもしれない。


背中に何十枚もの羽根がはえたような気分だった。


改札口の近くまで行った時、静奈が改札口から飛び出してきた。


キオスクの前で立ち止まり、あたりをきょろきょろしている。


通勤ラッシュにあたっているためか、辺りは人の波だ。


繋いでいた手をほどいて、


「逃がすなよ。しっかり、捕まえろ」


と健ちゃんは言い、わたしの背中を優しく押した。


わたしは背後から静奈に抱きついた。


静奈の匂いがする。


ベビードールという、静奈が高校生の時から愛用している香水の匂いだ。


わたしは、頬に静奈の鼓動を感じながら、その優しい香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


もう、絶対に、どこにもいかせない。


失ってたまるもんか。


体を離した時、静奈が涙目で手話をした。


「ありがとう」


わたしは、首を振って笑った。


わたしは、何もしていない。


全部、健ちゃんが協力してくれて、健ちゃんが背中を押してくれたのだから。


わたしは振り向いて、健ちゃんに微笑んだ。


〈ありがとう〉



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