恋時雨~恋、ときどき、涙~
くらくら、目がくらんだ。


向かって右に立っていた人影が、左の人影に話しかける。


一拍置いて、左右に首を振り、人影が振り向いた。


わたしは、ブーケを抱きしめた。


鼓動が、小さく小さく、静かに飛び跳ねる。


亘さんと、次に振り向いたのは、健ちゃんだった。


「健太」


亘さんが、健ちゃんの肩に手を置いた。


でも、健ちゃんは口を真一文字に結び無表情のまま、肩に置かれた手を丁寧に振り払った。


「健太」


と、亘さんが難しい顔で肩をすくめた。


何も知らないという事ほど、残酷で幸せな事はないのだ。


その表情に隠されていた全ての事を知っていたのなら、わたしはきっと、安易に話しかけたりはしなかったのだと思う。


わたしは緊張を隠しながら、健ちゃんに微笑んだ。


祭壇を降りて、健ちゃんがこちらに歩いて来る。


〈元気、だった?〉


そう手話をして、もう一度微笑みかけた瞬間だった。


わたしは自分の存在を疑った。


透明人間になってしまったような気がした。


近づいて来た健ちゃんが右目だけを細めて、わたしの両手を見たあと、まるで何も見なかったかのように通過して行った。


海のような、爽やかな、懐かしい香りがした。


健ちゃんは、わたしの右側をすたすたと通り過ぎた。


まさか、ここまで極端に無視されるとは思っていなかった。


目も合わせてくれなかった。


心臓が止まったんじゃないかと、不安になった。


時間が止まったのかと思った。


知らない世界に放り出されたのかと思った。


わたしと彼をとりまく空気は、180度変わっていた。


膝ががくがく震える。
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