恋時雨~恋、ときどき、涙~
一歩ずつ遠ざかって行くその後ろ姿は、かつて、わたしが愛した男の人の背中だった。


いいえ。


今でも、愛しているのだけれども。


広い肩幅、だけど、男にしてはなだらかでしなやかな曲線の肩。


少し猫背気味の、大きな背中も。


間違うはずがない、健ちゃんの背中だ。


だけど、わたしは、追いかけて顔を確かめる事ができなかった。


彼とはもう、3年前に疎遠になった。


わたしが、離してしまった。


ひだまりのような、その手を。


今日、3年ぶりに顔を合わせた彼は、まるで知らない人のようだった。


明るい茶色で、ライオンの鬣のようだった髪の毛は短く切りそろえられ、真っ黒になった。


外見がどうとかではない。


わたしがいちばん苦しさを覚えたのは、その目つきの変わりようだった。


かつての彼は人懐こく、ふんわりと暖かなひだまりのような空気を持っていた。


でも。


3年ぶりに見た彼は、別人のような目つきになっていた。


冷たく凍てついた氷のような、暗い色の瞳をしていた。


礼拝堂で、亘さんから告げられた、健ちゃんの今。


追いかけて、近づいて行こうという気になりかけた時、ふと、その事を思い出して、苦しくなった。


失声症。


あの時、亘さんが教えてくれた。


本来、失声症になっても、1、2週間で声は出るようになると医師は言っているにもかかわらず、カウンセリングも真面目に受けているというにもかかわらず。


声が出なくなってから3年が経とうとしている今も、健ちゃんの声は出ないままなのだという。


『先生が、言ってるんだ。何か、精神的に、自分ではどうにもできないほどのショックを受けたんだろうって』


さて、出ないのか、出したいけれど出せないのか。


出せるけれど、出さないだけなのか。


それは、彼にしか分からない事なのだけれど。


『心の病気を併発してるって。先生が言うんだ。心を閉ざす、病だって。この病が治るか、治らないか。それはもう、あいつ次第なんだって。あいつが望まない限り、戻らないよ。健太は、戻って来ない』


そして、亘さんは、こう言った。
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