腐ったこの世界で


聞き覚えのない言葉に、あたしは眉を寄せる。
レオンさま? それって誰?
この屋敷で名前を知っているのはクレアとイリスの二人だけだ。他にあたしと面識があるのは伯爵と執事と昨日のお医者様くらいしか…。

「アリアさま? どうかなさいましたか?」
「あの……聞いてもいい?
「なんです?」
「レオンさまって誰?」

あたしの言葉に二人は目を見開く。え、もしかして知っておかなきゃまずい人なの!?
あたしは必死に記憶の箱をひっくり返した。…駄目だ。誰も思い付かない。
困った顔でおろおろするあたしを見て、二人は本当に知らないのか、とまた驚いた顔をした。

「レオンさまは当家の伯爵のことですよ」
「……伯爵?」
「はい。レオンハルト・ルーシアスさまです」

告げられた名前にあたしは文字通り固まる。考えてみればあたし、伯爵の名前も知らなかった。
伯爵はあたしの名前も知らずにあたしのことを買っていたが、あたしも人のこと言える立場じゃなかった。

「レオンハルトって言うんだ…」
「古参の使用人たちは、たまに愛称の『レオンさま』って呼びますね」

そっか。レオンハルトって名前だったんだ。知ったのは良いけど今さら呼びにくいなぁ。『伯爵』って敬称で呼んでたし。

「どうかなさいましたか?」

難しい顔のまま黙り込むあたしに、クレアが心配そうな顔をする。「ううん! 大丈夫!」あたしは慌てて笑顔を作った。まだクレアは心配そうな顔をしていたけど。
名前も知らなかった、という事実に落ち込む自分がいて、そのことにあたしは驚いた。考えてみればあたしは伯爵のことを全然知らない。

助けてくれた相手なのに。

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