西瓜に醤油
 地図もなしに行ったせいで途中で道に迷ってしまい、夜行列車を見ることはできなかった。あひるは拗ねたが、俺がまた行こうと言うとようやく笑った。そのまま家に戻る。小さな木造のアパートで、部屋があひると隣同士だ。玄関に鍵を差し込み、ノブを回す。中へ入るとあひるも当然のように後をついてきた。きちんと靴を履かないあひるが歩くと、ぺたぺたと音がする。それでずっとついてくるのがまるで本物のアヒルのようで、少し口元が緩んだ。朝食の時間だ。
 食事の準備をしながら、ゴールデンバットに火を付けた。普段滅多に煙草を吸わない俺の一連の仕草をじっと見つめるあひるに、「吸う?」と一本差し出したが、あひるは首を横に振った。あひるが吸っているベヴェルライトは、煙は多いが軽くて甘い。パッケージ的にも女性向けのものと思われるのだが、それしか吸ったことがないというあひるには、確かにゴールデンバットは強すぎるかもしれない。舌についた葉を吐き出す俺を見ながら、あひるはテーブルに両肘をついてにこにこしていた。

 あひるが常に持ち歩いているもの。携帯灰皿と、醤油。卵や豆腐はもちろん、あひるは他のあらゆる食品に醤油をかけたがる。彼といるとたまに本気で頭がおかしいんじゃないかと思わされることがあるが、本人はいたって平然としていた。あひると食事をするとき、まさかこれにはかけないだろう思われる食品をわざと出してみることがあるが、彼は期待を裏切らない。これまで饅頭にもケーキにもためらうことなく醤油をかけて口に運んできた。
「それ、おいしいの?」
 この日も、出されたサイコロサイズの西瓜に迷わず醤油をかけたあひるを見て、正面から問いかけた。「食べる?」と箸に刺した西瓜を差し出され「いい」と顔を背ける。うまいとは思えなかった。
 食器はいつもあひるが洗う。彼の手つきは慣れたもので、皿のぶつかり合うカチャカチャという音がいっさいしない。水音も最小限だ。洗い終わったのが分からないので、ソファで寝ころんで待っている俺はいつも突然のしかかってくるあひるに驚かされた。
 何見てるの。俯せの俺の腰に座ったまま手元をのぞき込んでくるあひるを、押しのけようと身を捩る。雑誌、重いよお前。そんなことないとあひるは笑う。いつまでも立ち上がろうとしない。諦めて雑誌に目線を戻すと、あひるの手が俺の髪の毛に触れた。西瓜の甘い匂いがした。
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