キミは聞こえる
「――で? 特に用がないなら帰るけど」
「こっ、こほん。いや、今回はちゃんと用がある」

 軽く咳払いをして、さっきの男だけど、と桐野は言った。

「栄美の教師、だっけ?」
「そう、元担任」
「何か言われた?」
「ううん、べつに」
「うそ」

 間髪を容れず言い返されて、怯みそうになる自分をぐっと堪える。

「じゃあ嘘」
「何て言われたの」

 茶化す泉に、しかし返ってきた声は思いがけず真剣なもの。冗談は二度も通じないとわかった。

 問い詰めるような眼差しを、泉は見つめ返すだけで精一杯だった。

 言えるはずがない。桐野には、言えない。栄美に帰ってこいと言われたことなど、とても。

「理事長室行った後も、さっきそこで話してたことも。おまえ、内履きのまま外に飛び出してきてたじゃん」
「あれはただ、挨拶をし忘れたから追いかけただけで――」
「手に持ってたの、あれ、栄美女学園の資料だったんじゃねぇの?」

 男のくせに桐野は勘がよすぎだと思う。
 佳乃の顔から一瞬にして色が消えた。

「そっ、そうなの、代谷さん!?」
「てことはあれか、代谷は栄美に帰るって――」
「ちがう」と泉は小野寺を遮った。「それは違う」

「あれは、確かに高等部の資料だった。けど、それだけ。私は帰るつもりはない」
 
 言うと、その場の空気がふっと和んだ。

 言葉と心が一致しない口先だけの返事が、ますます泉を重たく責める。

 すべてがすべて嘘ではないけれど、栄美に帰りたいと揺れる心もまた事実―――。

 ほっとしたように笑みをみせる佳乃の表情が泉にちくりと針を刺す。小野寺の顔もそう、愛しい人が嬉しそうに口許をほころばせる様子を穏やかな眼差しで見守っている。なんて眩しい二人だろう。

 これ以上しあわせな光景を直視するのが耐えられず、泉は視線をそっと花壇へと逃がした。

「よかった」

 安堵感に満ちた桐野の声に、ずきんと、ひときわ強い痛みが走った。

「俺、てっきり代谷このまま東京にもどっちまうんじゃねぇかって内心焦ってたんだよな。代谷、全然センコーと仲良くねぇくせにあの教師とはめずらしく親しい雰囲気だったし」

 なぁ栗原? と同意を求める桐野に、佳乃はこくこくと頷く。

「取り越し苦労でよかったな」と小野寺。
「うんっ」

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