あたしが眠りにつく前に
 テープはあの雨の日の午後から始まる。熱で気を失っていた珠結を発見したのは、たまたまそこを通りかかった近隣の住民だった。すぐに緊急搬送され、珠結が目覚めたのはその3日後だった。病院のベッドの上でぼうっとしていると、気づいた母親に抱きすくめられた。

後から聞くと病院に運ばれてから母の会社に連絡が行き、急いで駆けつけたという。その間は仕事を休んで始終付きっ切りで看病を続けていたらしい。幸い発見が早く、肺炎にはなっておらずただの風邪だった。

 その翌日に退院すると、母の説教が待っていた。爆弾を抱えている身で見ず知らずの地を一人で歩き、そのうえ大雨なのに傘も差さないで。とうとうぶっ倒れた時、どうしてすぐに出られるか分からない携帯ではなく、会社にかけないのか。その他諸々も含め、きっちりと絞られた。

傘の存在を忘れていた、大事にしたくなかったという言い訳は悉く却下され、珠結は始終正座で萎縮しきりだった。このときばかりは睡眠発作を気にかける余裕は無かった。

「お願いだから。三度目は、きっと耐えられない」

 そう締めくくられたその言葉に、胸がえぐられる思いがした。結局母は、珠結の行動の理由を問いただそうとはしなかった。珍しく潤んだ瞳の母に言えたのは、「ごめんなさい」一言のみだった。

 強烈な記憶はそこまでで、以後はあまりはっきりしていない。状況として、登校した時にはすでに帆高への腫れ物扱いは無くなっていた。人の噂も七十五日よりもあっけなく、遠い過去の出来事または最初から存在しなかったこととして収まっていた。

香坂もクラスに復帰していた。聞くところによると、「交際を断られたショックで大げさに泣いて騒いでしまった、一之瀬君は何も悪くは無いのに迷惑をかけた」と教室で皆のいる前で直接帆高に謝罪したという。帆高も謝罪し、和解が叶った。

 その潔い行動が事態の完全なる収束を早めたことは間違いない。自分の暴挙がその引き金を引いたかは微妙なところだ。ともかく、全てが平和的な形で幕を閉じた。

 だから、糸が切れたのだと思う。感情と時間感覚がおぼろげになった。

 帆高が自分に構うことは一切無くなったし、二人の仲の変貌を口に出す輩は少なくともクラスメートやお互いの友人にはいなかった。帆高と自分を繋ぐ糸は誰の目から見ても切れた。彼は関わりの無い、自分には届かない遙か高みにいる存在。そう思うからこそ、他人の噂も耳を通り抜けていく。

付き合っていた事実も無いのに破局しただとか、自分が悪女で帆高をいいようにこき使ってきたものの、とうとう愛想を付かされて捨てられただとか。自分に関するものであっても、どうでも良かった。

 何も聞こえなくなった頃、今度は帆高と香坂が付き合いだしたと耳にした。委員会で二人が一緒にいるところや、廊下で談笑しているところは何度か遠目で見かけた。さもありなん、横を通り過ぎてもお互い一瞥もくれない。あるのは同級生という関係性、友達ですらない。

 友人達と穏やかな時間を過ごし、黒板に向かってシャープペンシルを走らせる。単調な毎日に、屋上やそこで見渡す夕焼けは切り捨てた。必要がない、想い出の欠片。忘れるべきであるもので、未練は無い。

新しい日常に慣らされて行き、自然に定着する。抵抗せずに受け入れ、時の流れにゆらゆらと身を任せ、そこに自分の意志があるのか分からないで。

 だけど時々、自問することがある。今の自分は大丈夫なのだろうか。

 まだ、狂ってはいないだろうかと。

 気がつけば、現在を迎えていた。
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