雪枝エッセイ
キッチンの姫


冬。
夕暮れもとうに過ぎた暗い時分、ウォーキングから帰ってきて風呂上がりの雪枝は、母に茶を淹れることにした。
「かあ様、お茶飲む?」
介護ベッドの上にちょこんと座り、テレビのバレーボール中継に夢中の母が、老眼鏡の向こうで小さく「はい。」と返事をした。
母は熱心にテレビに見入り、こちらを振り向きもしない。
さっき、ウォーキングで外にいた時、白い息になるほど寒かった。
母と過ごす小さなキッチンは、オレンジ色に暖かい。
雪枝はキッチンで緑茶を淹れ、母の目の前のテレビ台に置いた。
「はぁい、母上。」
「ありがと。」
今は人に何かしてもらわないと生きていけない母は、可愛くお礼を言うのが得意になった。
緑茶のカップを置いて、居間からキッチンにUターンして背を向ける雪枝の背後で、背中を丸めた母が、お茶を飲むために身体を揺らす気配を雪枝は感じた。
それほど二人の距離は昔に比べ、近くなったのだ。
すると後ろから母が雪枝に言う。
「このお茶の鉄のカップが、唇に熱いから、陶器のカップに入れかえてちょうだい。」
また、母の面白いわがままが出たと思い、雪枝は笑い出した。
「カップは陶器に変えてほしいって、わがままだな~。
マリー・アントワネットみたい!」
お茶を飲む母も、娘の雪枝も、この小さなキッチンで、小さな小さなお姫様なのだ。
もう、外の世界は、世間は、寒くて寒くてたまらない季節なのだろう。
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