365回の軌跡

雨の中

「何か最近、元気ないな。何かあったのかい?」
ウメばあさんに話し掛けられた私は雑巾がけの手を止めた。
「なに言ってるの?私はいつも通り元気だよ!」
「ばあさんには分かるんだよ、沙紀ちゃんとは長い付き合いだしね~」
そう言うとウメばあさんはお茶を一口啜る。
これが私の仕事だ。ホームヘルパー。身体の弱ったお年寄りの家に訪問し、様々なサービスをする。私は高卒でこの職についた。ただお年寄りが好きだった。そして東京に住みたかった、というのが動機だった。
「沙紀ちゃん、困ったことがあったら相談に乗るからねぇ」
「ありがと、ウメばあさん。でも大丈夫だから。」
ウメばあさんは少し微笑むと、庭に目をやった。
「今年ももう少しで桜の花が咲くよ。この時期がばあさん、一番幸せなんだよ」
ウメばあさん。本名原田ウメさんは、独り暮らしで今年89歳になる。早くに夫を亡くし、女手一つで頑張って育ててきた息子も大阪に行ってしまい、更に腰、膝を悪くしてヘルパーを頼んでいる。私が入社してからずっと訪問しているので五年の付き合いになる。その間に私も新社員の頃から沢山の悩みを聞いてもらってるし、料理や家事の知恵も教わった。ウメばあさんは私の東京の母みたいな存在だった。
「今年も綺麗に咲くだろうね、あの桜。」
私も庭に目をやる。ウメばあさんは名前に反して庭の桜が咲く時をとても楽しみにしている。小さい庭にしては大きな桜の木だが、若い頃にご主人とここに家を建てた時に、一緒に植えた桜の木だそうだ。
「楽しみだよ、あの桜はいつもばあさんに力をくれるんだよ、頑張れってね。」
ウメばあさんはきっといい恋愛をしてたんだろうな…私は蕾が膨らんできた桜の木を見上げながら、そう思った。
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