満ち足りない月
最初に持ちかけてきたのはエルだった。
「セシルお嬢様、さあ練習を始めましょう」
壊れそうな物をそっと持つようにエルは優しく声をかけた。
しかし練習を始めようともせず窓の外を見つめたままのセシル。
セシルはエルが専属の家庭教師になってから彼女を無視し、続けた。
または口を開いても出るのは
「私はこの家の一人娘よ。なぜ貴方のようなただの一市民にお稽古なんか教わらなくちゃいけないの。お父様もプロを呼んできてくれたらいいのに」
などという皮肉ばかりだった。
数々の功績を残してきた彼女だったが確かにプロではなかった。
その理由には家が貧乏で、音楽家として活動していくにはあまりに乏しく、コンクールに出場する為の資金もない事があった。
しかしそんな才能の原石を見逃さなかったセシルの父は多大な報酬と共にセシルの家庭教師とさせたのだ。
そんな訳でそう言われると言い返す事ができないエルは毎日しつこくセシルに言った。
「音楽は楽しむものです。だから技術など関係なく、楽しめればいいんです。私がお嬢様にそんな音楽の素晴らしさを教えます」
いつもそう言われても尚、口を閉ざしていたセシルだが、ある時振り返って彼女をしっかりと見つめた。
「今まで何かに楽しいと思った事なんてないのに、楽しめる訳ないじゃない」
それを聞いたエルは目を見開いた。
そして静かに言ったのだ。
「分かりました。それじゃあ私は貴女に音楽を教える“家庭教師”ではなくて、貴女に楽しい事を教える“友達”になりましょう」