アリスズ
△
「キク…」

 何だ。

 綴られた自分の名前に、彼女は足を止めていた。

 何だ、ちゃんと発音できるじゃないか。

 彼女の名前を発音できる確率は、半分以下。

 いままで、身近な人間できちんと彼女を呼べたのは、アルテンくらいだった。

 そして、気づいた。

 初めて彼に、名前を呼ばれたことを。

 寡黙な男だし、必要なこと以外余りしゃべらないし。

 それでも、彼女の名前はちゃんとダイの中にあったのだ。

 しかも、とても正しい音で。

「ありがとう、ダイエルファン…私も、ちゃんとお前の名前を覚えてるぞ」

 振り返って、覚えている音をなぞってみた。

 ダイは。

 微かに、苦い笑顔になった。

 どこか、自己嫌悪しているようにさえ見える。

 何を嫌悪する必要があるのか。

 彼は、素晴らしい男だ。

 大地にしっかりと両足を踏みしめ、一歩一歩歩いてゆく男だ。

 御曹司に必要とされる限り、ダイはどこまででも自分の力で登ってゆくだろう。

 そんなこと、最初から分かっている。

 対する菊は、この世界に来てから特に、軽くあろうとした。

 もはや、祖国であったしがらみはなく、彼女はただ菊という一個人として、この世界で生きていけるのだ。

 それを、心行くまで満喫している。

 ダイを困らせるほどに。

 だが、きっとこれからも、菊は自分が選び取った道を歩いてゆくのだ。

 まだ。

 まだ、菊は行かねばならない。

 この身の内にある、若い衝動がゆるやかになるまでは。

「もうしばらく…困っててくれ」

 ようやく、菊はそう言えた。

 いまは、これしか言えなかったのだ。

「ああ…そうするしかないか」

 キク、と。

 たった一度しか呼ばなかった唇が──呆れた笑いを浮かべた。
< 351 / 511 >

この作品をシェア

pagetop