その唇、林檎味-デキアイコウハイ。

*てのひら

 フロアに出る前に、私は深く深く息を吐いた。本当に来る、もしくは来ているのだろうか。考えるだけでどっと押し寄せる疲れに見て見ぬ振りをして、私は自分に一喝入れる。


「―――よしっ」


 常に笑顔を絶やさず。何を言われても、我慢。

 来期からの時給アップを心の支えに、気分を切り替えてホールに入る。

 しかし丁度、図ったようなタイミングで爆弾が投下された。嫌気が差すことこの上ない。


「あ、先輩」


 レジの奥のスタッフルーム入口。そこから私が出てくるとほぼ同時に、店の入り口のドアが開いて、とうに見慣れてしまった笑顔が映った。

 どうやらこの表情は標準装備らしい。何の仕事もしていないこの段階で、既に普段より疲れが来ている。


「約束通り、来ましたよ?」

「……約束なんてしてない。あんたが勝手に…」


 私は了承していない。していないけれど、嫌な話来るのは勝手だ。そんなことは私だって分かっている。迷惑な話ではあるけれど。

 あくまでもその言葉、単語一言を訂正しようと口を開いたけど、それもいい終わらないうちに、声を被せられた。


「惺」


 突然自分の名前一つ口にした彼。その意図が見当もつかず、思わず目を瞬かせた。

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