その唇、林檎味-デキアイコウハイ。
「惺って。名前で呼んでくださいよ」

「えっやだ」


 突然の要求に、思わず即答する。何を言っているんだろう、いや、分かるけれど分かりたくない。和気藹々とした店内の空気が、ここだけ凍る。


「どうして?大したことじゃないのに」


 大したことじゃないなら、要求しないでほしい。思いはするけれど、上手く声に出せない。

 適当に取って付けたように言ってしまえばいいのに、何故か躊躇ってしまう。言葉が詰まる。


「……仕事中だから、失礼っ!」


 結局は、若干の早歩きで逃げ出した。他の従業員の人達に、申し訳ない。何とも無駄なことに時間を割いてしまった。

 他の人は少しでも多く働いていたのに。昇給した人はともかく、基本的に皆、同じ自給で働いている。


 レジの傍をある程度離れたところで、そっと振り返ってみると、彼はもう椅子に座っている。

 一体何がしたいのだろう。いや、こんな店に来たからには食事を摂るつもりなのだろうけど、純粋にそれが目的なら私も困らないのに。

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