龍馬! ~日本を今一度洗濯いたし候~
長崎にいくことになった勝麟太郎(勝海舟)も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
かねてから麟太郎を支援していた箱根の豪商柴田利右衛門もおおいに喜んだ。
しかし、その柴田利右衛門は麟太郎が長崎にいる間に病死した。勝海舟は後年まで彼の早逝を惜しんだ。「惜しいひとを亡くした」勝は涙目でいった。
幕府から派遣される伝習生のうち、矢田堀景蔵、永持や勝麟太郎が生徒監を命じられた。 永持は御目付、奉行付組頭で、伝習生の取締をする。
海陸二班に別れて、伝習生は長崎に派遣された。
麟太郎は矢田堀とともに海路をとったという。
昌平丸という薩摩藩が幕府に献上した船で、一行は九月三日朝、品川沖を出帆した。
長さ九十フィートもある洋艦で豪華な船だったが、遠州灘で大時化に遭った。
あやうく沈没するところだったが、マスト三本すべて切断し、かろうじて航海を続けた。 長州下関に入港したのは十月十一日、昌平丸から上陸した麟太郎たちは江戸の大地震を知った。
「江戸で地震だって? 俺の家は表裏につっかえ棒してもっていたボロ屋だ。おそらく家族も無事ではないな」麟太郎は言葉をきった。「何事もなるようにしかならねぇんだ。俺たちだって遠州灘で藻屑になるところを、あやうく助かったんだ。運を天にまかすしかねぇ」
「勝さん。お悔やみ申す」矢田堀は低い声で神妙な顔でいった。
「いやぁ、矢田堀さん。たいしたことではありませぬ」麟太郎は弱さを見せなかった。
昌平丸は損傷が激しく、上陸した船員たちもほとんど病人のように憔悴していた。
長崎に入港したのは十月二十日だった。麟太郎は船酔いするので、ほとんど何も食べることも出来ず、吐き続けた。そのため健康を害したが、やがて陸にあがってしばらくすると元気になった。長崎は山の緑と海の蒼が鮮やかで、まるで絵画の作品のようであった。 長崎の人口は六万人で、神社は六十を越える。