迷宮の魂
このところ残業が多く、和也の帰宅は夜の8時を過ぎる。
和也は近所のスーパーに寄り、閉店間際の特売の牛肉を買って行く事にした。
智恵美はすき焼きが大好きだ。彼女の喜ぶ顔を見られる事が、今の和也にとっての一番の幸せであった。
部屋の前迄来た時に、はて?と思った。
電気が点いていない。
鍵は開いていた。
「智恵美、居るのか?」
返事が無い。
買い物か?
台所脇のトイレの扉が半開きになっているのが目に入った。覗いた瞬間、和也は、あっ、と一声上げて立ち尽くしてしまった。
そこには、血の海に横たわる智恵美がいた。
「智恵美!」
何度も名前を呼び、身体を揺する。微かに目が開いたような気がした。
「だ、大丈夫か、しっかりしろ!」
智恵美の身体をトイレから引きずり出す。彼女の唇が動いた。
「何だ?どうした?とにかく直ぐに救急車を呼ぶから!」
抱き起こしていた智恵美の身体を床にそっと降ろそうとした時、彼女の身体から僅かに残されていた命の灯火が消えた。
ぐったりと身動きしない智恵美を呆然と見ていた和也は、何が起こったのか理解出来ないままでいた。
痴呆のように立ち尽くしたままの和也は、まだ微かに温もりのある智恵美の頬をさすった。
彼女の体内から流れ出た血に、和也はあの時の事を思い出してしまった。
と同時に、獣の咆哮のような声を上げた。
涙が出尽くす迄泣いた。涙が枯れるとともに、彼の心も枯れ果てた。
智恵美の肉体がただの物と化してしまった現実をやっと理解した時、和也はおもむろに台所にあったタオルを手にした。そのタオルで智恵美の下半身を染めた血を丁寧に拭い始めた。
不思議と涙は出ない。意識は和也の身体から抜け出ていたのかも知れない。
和也は自分の仕事用のバックから、現場仕事に使う大型カッターを取り出した。
刃を目一杯に出し、その刃先を左手首に当てた。素早く引くと一本の赤い筋が出来た。意識はまだある。意識がある間、和也は何度もカッターを引いた。