六天楼(りくてんろう)の宝珠
 最初に碩有(せきゆう)がその女(ひと)を見たのは、自室近くの庭を迷っている姿だった。

 春にしては気温の高い日だった。雨戸と障子を開け放しての読書の途中、庭で物音がしたのでそちらに気を取られた時の事。

 ややあどけなさの残る大きな瞳に涙をうっすらと浮かべて、女は豪奢な着物や髪飾りに頓着する風もなく木々を掻き分けて進んで行く。

 碩有は生まれた時から暮らしているので慣れてはいるが、ここは敷地そのものが広大だ。しかも幾つもの建物を回廊が繋いでおり、その一つ一つが入り組み中庭を取り囲んでいるから、ふとした拍子に帰り道がわからなくなったのだろうと思った。

「待ちなさい。そちらに行っても、六天楼(りくてんろう)には戻れませんよ」

 思わず声をかけると、女は文字通り跳び上がった。次いで、恐る恐る声の持ち主を振り返る。

「……そうなんですか?」

 碩有は軽く溜息をついてから、それまでいた机から離れ彼女の近くまで縁側に進み出た。

「こちらは東の奏天楼(そうてんろう)です。六天楼は逆方向。侍女はどうされたんです? 元来た道を引き返すより、侍女を呼んで一緒に帰った方が早い」

 東、の言葉に女の白い顔が青褪(あおざ)めた。

 碩有は苦笑する。目の前の女性はどう見ても、仕事の途中で迷い込んだ新米の使用人には見えなかった。それで六天楼の言葉を出してみたのだが、的中してしまうとは厄介だ。

 西に構えるその建物は、主──現在は彼の祖父、戴剋(たいこく)の側室が住まう処(ところ)である。新しい側室の噂は聞いていた。

 正妻が亡くなってより今までの間、数多(あまた)の側室を迎えた祖父であったが、今度のそれは人目に触れさせず、掌中の珠の如く大切にしているとも。

「待っていて下さい。今、使いの者を」
< 1 / 94 >

この作品をシェア

pagetop