六天楼(りくてんろう)の宝珠
──碩有様の房に、間違いない。

 碩有の匂いがした。──恐らくは普段焚きしめている、柔らかな香の匂い。

──此処が普段、生活されている場所なのね。

 という事は、自分は奏天楼に入ってしまったのだ。見つかればさぞやお咎めを受けるだろう、そう思い至った所で翠玉は自嘲の笑みを浮かべた。

 六天楼を一人で抜け出した時点で、充分掟を破っているではないか、と。

 一体何をやっているのだろうという気はしていたが、初めて見る夫の私室に興味も湧いた。

 右手奥の壁にある書棚に近づいて、棚に並ぶ書物を眺める。ほとんどが学問に関するものだったが、中には古典や物語の様な趣味らしき本もあった。実際、自分との会話からも彼の博識さは滲み出ていた気がする。

──そう、いつもあの方は私の知らない世界のお話をしてくださった。長椅子に座って……楽しそうに。

 本の中身を見てみようと伸ばした手を力なく下ろして、翠玉はそのまま床に膝を付いた。

 涙が零れる。

 この部屋には、碩有を感じさせるものが余りにも多過ぎる。

「ふ……っ」

 何故泣いているのか、よくわからなかった。ただこみ上げて来るものが押さえきれず、雫となって頬に溢れて来る。

 彼が自分を「ただ其処にあるだけで」と言った、あの意味。

 もし、私と同じ思いであるならば、どんなに嬉しい事だろう──

 翠玉の感傷は、廊下を慌しく踏み鳴らす足音に拠って破られた。

 慌てて頬の涙を袖で拭って、次の間に隠れる。

「──女性の足で、しかもあの姿ではそう遠くには行かれませんでしょう。少しは落ち着かれませ。今は衛士も総動員で探しておりますので」

 扉越しに聞き覚えのある冷静な声がして、扉の鍵を開ける音がした。
< 87 / 94 >

この作品をシェア

pagetop