ボーダー
ネイビーのブラウスに、グレーのレーススカート。
ヒールの低い黒のパンプス。
耳から下がるしずく型のムーンストーンは、誕生日に彼に貰ったものだ。

着替えを終えると、パンツスーツはスーツケースに詰め込む。

立ち上がる際によろけたが、ヒールが低い靴を履きなれないからだろう、と思っていた。
ショルダーバッグを肩から下げ、キャリーバッグを持って、ホテルのトイレを出た。

武田さんが運転する車に乗り込んだ私は、ある場所に連絡を入れる。
ある人に指輪を返すべく、入院先の病院を聞きたかったからだ。

『メイ?
お前、どうして……』

電話口からは、愛しい婚約者の焦った声が聞こえた。

「詳しくは後で話すわ。
ちょっとあっちで、元々あの交渉に参加するはずだった弁護士が体調を崩したから、私が代わりに。
ついでに、アイツに渡したいものもあったし。

タイミングが合うようなら、貴方の大事な幼なじみの顔も見てみたいのよ。」

『そういうことなら、いいんだけどさ。
また、メイに何かあったんじゃないか、って心配で。
心配しすぎだよな、悪い。
どうしても、可愛くて色気ある婚約者のことが心配なの。
それだけは分かって。

幼なじみ2人なら、高校の授業が終わったら来るって言ってたから、もしかしたら会えるかも。
来たら、伝えておく。』

蓮太郎ったら。
さらりと可愛いとか言わないでほしい。

エンパイア・ステートビル近くのホテルでは出来なかったこと、今度こそできるかな。
蓮太郎も、その気持ちなら嬉しいけれど。

「はいはい。
心配性な婚約者さんですこと。
そういうところも好きだけど。
病院と病室の場所は、武田さんが知ってる?
あ、そういえばそうよね。
彼に聞いて向かうわ。

ちょっと脳が疲れてるのかも。
まぁ、蓮太郎の声が聞きたかった、っていうのもあるわ。

また後で会いましょう。」

『いろいろ影で動いてくれてたんだな、助かるよ。
アメリカに行く由紀ちゃんとかのために、いろいろ調べてくれてるんだろ?
武田から聞いてる。
ありがとう。

……後で甘ったるくてとろける糖分、になるかは分かんないけど、ちゃんとご褒美はあげるから、可愛い声聞かせてね?』

蓮太郎ったら、余計なことを。

でも、よく考えればそうなのだ。
蓮太郎にではなく、武田さんに病院の場所を聞けば済んだ話だ。

やはり、身体も心も疲れていて余裕がないのかもしれない。
蓮太郎という名の癒やしは必要か。

身体が熱を持っているのが気になった。
蓮太郎にご褒美、と言われたことで、彼がこの国に発つ前に出来なかった行為を想像したからだろうか。

それとも、梅雨が明けて夏になろうとしている日本の気候に慣れないだけか。

病院に着いて、車から降りるときにもフラついたが、疲労が溜まったせいだと気にも留めなかった。

受付やナースステーションに話は通っていたらしい。

まっすぐ、浅川将輝の病室に向かった。

何回か軽くノックをして、彼の病室に入り、彼が身体を横たえているベッドに近づいて、言った。

「……久しぶりね。
浅川 将輝。

告訴しようかと思ったけど、辞めたわ。
貴方のガールフレンドの母親のおかげでいろいろ考え込んで、悩んでいたのが吹っ切れたの。
その娘があんな目に遭ってる、となれば協力するのが筋だからね。
こう見えても、受けた恩はちゃんと返す主義なのよ、私。

こう言ってはみたけど、行くはずだった人が高熱を出して行けなくなったから、代理で来たのだけど。

これも返したかったし、ちょうどいいわ。」

彼に、あのピンキーリングを投げるフリだけして、手のひらに置く。
ついでに、傍らに資料も置いた。

「……遅くなったけれど返すわ。
あの子のこと、泣かせたら許さないわよ。

あ、そうそう。
これ見て、使い古しのこれじゃなくて、新品選びなさいね。
2人であっちに行くのでしょう?

国籍選択届は貰ってあるわ。だけど、記入はまだなの。
籍を入れてから書こうか、少し悩んでいるところよ。

個人的にはあっちのほうが好きだから、少し寂しいけれど。
どちらにせよ、何かあったら行くわ。
その時には蓮太郎もけしかけてね。

うまくやりなさいよ。
くれぐれも、初めてのときは私みたいに無理やり、じゃなくて優しくしてあげることね。」

彼に言うだけのことを言った後、浅川 将輝の病室を出た。

立ちくらみがしたが、疲れているからだろう、と思った。
指輪と一緒に、彼の傍らに置いたA4用紙数枚。あれには、指輪が買える店や、ビザなしではアルバイトすらできないことを記してある。

これを作っていたから、睡眠不足になったのだと思う。
しかし、少しでも、私が生まれ育った国で一時的とはいえ、平穏に過ごしてほしい気持ちはあった。
だからこそ、この資料を作ったし、作るのは苦じゃなかった。

浅川 将輝の病室から出て少し歩くと、ラウンジがあった。
そこで身体を休めよう、と思った刹那、タイミングがいいのか悪いのか。
会いたかった顔が正面から歩いてきて、思い切り抱きしめられた。
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