唐女伝説
 小助は楊貴妃の遺髪を袋に入れ、お守りのように肌身離さず携帯していた。油谷の浜に打ち捨ててあった持船を、手ずから対馬に持ち込んで再び漁夫となっている小助は、楊貴妃との思い出を糧に、道鏡への憎悪のみを生き甲斐にして生業に従事していたのである。
 幾星霜が矢の様に過ぎていった。称徳女帝に取り入って政権を牛耳った怪僧道鏡法王の権力も、称徳女帝の死と共に崩壊、道鏡が下野の薬師寺別当に左遷されたのは、宝亀元年八月のことである。小助達はこの吉報に沸き、早速油谷に帰郷することになった。太郎と辰も吉野に帰ることになり、四人は八年振りの解放感を味わったのである。
 道山は小さな寺の住職に収まり、小助は家を継いで、妻帯した。小助の妻はややといい、十五の息子と十二の娘を連れていた。一気に二人の父親となった小助は、長子の小太郎に漁の仕方を一年間みっちり教え込み、跡を継がすと、或る日置き手紙を残して家を出ていった。
 小助が向かった所は下野である。そこには今は権力の座から滑り落ちてしまった道鏡が居る。小助は楊貴妃と両親の仇をとる心算だった。楊貴妃を四年も監禁、凌辱し、病気にさせ死に追いやっただけでなく、父母をも捕縛して、老人に過酷な獄中生活を強い、死に至らしめた罪は到底許し難く、それに楊貴妃奪回の際に若い命を散らせた伍助の義に報いる為にも、例え破滅しようとも、小助はやらねばならない。
(全てはあの日儂と楊貴妃様が出会ってから始まったことだ。始末は儂がつけねばならぬ)
 あの時から十五年の時が流れていた。人間五十年と言う。後五年で小助も五十になる。五年の生命を四人の御霊に捧げることに、全く惜命の思惟などなかった。
 小助は信州の山々を踏破して坂東に入り、下野に入国、方々で道を尋ねて薬師寺に辿り着いたのは、宝亀三年四月のことだった。下野の山河は、一年で最も美趣溢れる新緑の季節を迎えていた。美景に暫し休息の時空を忘れる程であったが、小助には人生最後の賭けに勇猛心を奮起させる材料にしか映らない。
(死に場所には絶好の土地じゃ)
 小助は道鏡と刺し違える覚悟で、直様道鏡の動向を探り始めた。
 
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