剣と日輪
「作家なのに映画を作ったり、TVに出たりして話題を振り撒(ま)く、憂国作家を自称する気障な奴」
 としか見ていなかったので、公威の寄書を読み下した頃も、その文意がさして心に響かなかった。
 公威は、
「憂国の士」
 として飛翔しようとしていた。
「神風連」
 の取材、大作、
「豊饒の海」
 のスタート等の精神面の変革から、
「行動の河」
 へのステップアップをしようとしていたのである。
 その第一歩は、自衛隊への体験入隊である。救国活動には欠かせない雨にも風にも負けない心と体は、身に着けている。後は技術だった。昭和四十二年一月公威は、防衛庁広報課長伊藤圭一に、
「半年間位自衛隊の訓練に参加したい」
 と申請した。
「半年は長すぎる。そんな長期の体験入隊は許可できない」
 と不許可となったが、公威は諦めきれなかった。毎日新聞社常務狩野の人脈を借り、三輪防衛事務次官に請願して、上から自衛隊を動かしたのである。一、二週間に一度帰宅するという条件で、四十五日間に短縮された公威の体験入隊は、三月に許可されるのである。
 公威は、
「国土防衛隊」
 構想を練っていた。
「七十年安保に向け、今後共産主義者、無政府主義者のテロは益々凶悪化していくだろう。警察の手に負えない事態になるかもしれない。その時様々な制約のある自衛隊の手の届かない部分で活躍し、御楯(みたて)となって日本を死守する民兵を育成したい。それがこれからの俺の仕事だ」
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