剣と日輪
 河野は神奈川県出身で、戦後政界のドン吉田茂と敵対し、日本民主党を旗揚げして鳩山一郎を担ぎ、終(つい)に吉田を首相の座から引き摺り下ろした、反骨の政治家である。必勝は幕末維新の烈士達の中でも、飽く迄も明治新政府に反抗し、箱館五稜郭に散った新選組副長土方歳三を特に崇尚(すうしょう)していた。時世(ときよ)時節(じせつ)に阿(おもね)らず、己を貫く士を好んでいた。
 昭和三十八年十月十五日火曜日、河野が四日市市民ホールで講演会を開いた。必勝は海星高校を早退し、
「国造り」
 と銘打たれた講演会に出席し、ホール玄関で河野に握手を求め、手と手を交ぜ合せたのである。河野は、
「田舎の親仁(おやじ)」
 といった庶民的な風韻(ふういん)だった。必勝は感奮(かんぷん)し、
「早稲田に入学したら、弟子入りしよう」
 と勝手に決めてしまった。
 けれども必勝が浪人している間昭和四十年七月に、河野は六十七歳で他界してしまった。必勝は拍子抜けしたが、
「初志貫徹」
 し、早稲田の難関を突破したのだった。
 
 昭和四十二年二月日学同機関紙、
「日本学生新聞」
 が創刊された。創刊号には公威の激励文が寄稿され、必勝は、
「三島由紀夫」
 という作家を初めて身近に感じた。
「三島由紀夫」
 を必勝はよく知らなかったが、彼の制作、監督、主演映画、
「憂国」
 の映画評は風の噂で聞いていた。それと二・二六事件で処刑された陸軍青年将校の神魂(しんこん)を克明に描写してみせた、
「英霊の聲(こえ)」
 も読んでいた。

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