剣と日輪
 必勝達は北陽の暖かさ、蝦夷地(えぞち)の懐の深さに改めて、
「この掛替えのない祖国の真の復興こそ、俺達の世代の義務なのだ」
 と胸底に刻んだのである。

「論争ジャーナル」
 なる雑誌が創刊されたのは、昭和四十二年一月である。民族主義者の中辻和彦と萬代潔が発刊の中心人物である。二人は共に明治学院大出身だった。憂国の志高く、企業を退職し、土木作業員や廃品回収業等に携わりながら、彼等の師元東京帝国大教授で、銀座に研究室を開設し、
「皇国史観」
 の復権と伝導に生涯を捧げている国史学者平泉澄の提唱する、
「戦後日本の欺瞞を正す」
 べく奔走し始めたのである。
 平泉門下生である二人の試みは、同門下生達の支援に支えられた。創刊に漕ぎ付けた二人は、
「論争ジャーナル」
 を単なる民族主義派の機関紙的冊子に終らせたくなかった。共産主義、無政府主義に染まっていない文化人の論陣も張り、ゆくゆくは日本の論壇の振子になるようなステータスを、
「論争ジャーナル」
 に与えたかった。
 二人は体当たりで学者、作家、評論家等を訪ね歩いた。萬代は、歯科医師で、戦前満州青年同盟を結成し、満州開拓に従事した小沢開作より、プロレタリア作家から転向して流行作家となり、大東亜戦争肯定論者である林房雄を紹介された。林の紹介状を掌中(しょうちゅう)に、萬代が公威の豪邸に姿を現したのは、昭和四十一年十二月十九日月曜日の雨天の過(か)午(ご)である。
 萬代の肩書は、
「論争ジャーナル副編集長」
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