剣と日輪
春の雪編富士学校
 公威は護国の道を直進し始めた。日学同を脱退し、論争ジャーナル副編集長となっていた持丸博を学生長とし、自ら二十名の、
「祖国防衛隊」
 学生を引率して、自衛隊に体験入隊するプランが練られた。山本一佐、平原一佐、三輪防衛事務次官等の協力により、三月一日より三十日迄の一月、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原分とん地に於いて、祖国防衛隊隊員達は軍事訓練に勤しむ行程が確定した。
 公威は正月に次のような、
「祖国防衛隊綱領草案」
 を起草している。

一、    
われらは日本の文化と伝統を剣を以て死守せんとする軍隊である。
一、
われらは平和な日本人の生活を自らの手で外敵内敵から護らんとする軍隊である。
一、
われらは日本人をして文武両道の真の国柄に復せしめんとする市民の軍隊である。
一、
われらは市民による、市民のための、市民の軍隊である。平和な日本人の生活を、自らの手で外敵内敵から防衛し、依って以て日本の文化と伝統を、剣を以て死守せんとする有志市民の戦士共同体である。
(三島由紀夫「日録」より)
 
 公威の理想は一八七六年、明治新政府の開明と称する欧化政策に異を唱え、熊本で反乱を起こした、
「神風連」
 と、一九三六年に、国家改造をスローガンに掲げ決起し、東京を占拠した、
「二・二六事件」
 の皇道派青年将校である。
< 201 / 444 >

この作品をシェア

pagetop