剣と日輪
天人五衰編英雄
 葉月の潮音(ちょうおん)は至極の調べである。公威は八月の海鳴(うみなり)を耳にしながら、駿河湾を航行していた。酷い時化で同行者は皆船酔いに青褪めていたが、公威だけは平常と変わらない。
「豊饒の海第四部天人五衰」
 の取材クルーズである。
 八月十日午後三時十五分に下田港を出帆した小型漁船は、波高の湾内を北上し、午後七時三分に清水港に入港した。
「輪廻転生」
 と、
「夢」
 更には、
「無」
 という東洋文学の集大成とも評されるべき超大作、
「豊饒の海」
 は完結間近だった。四人目の主人公安永透が、清水で信号士として勤務しているという設定だったので、家族を伴いリクレーションも兼ねて小旅行を思い立ったのである。下田~清水間には定期航路は無く、サマーバケーションシーズンなので適当なチャーター船も出払っていた。盛夏だというのにどんよりとした雨雲に、夏空は拝めなかった。白い歯がやけに目立つ黒人みたいな長男の威一郎も、長女の紀子、妻の瑤子も吐きまくり、夕刻清水へやっと上陸した時には、
「もう船は嫌」
 とこりごりしていた。
 平岡一家は八月一日から、毎年恒例の下田東急ホテルに滞在していた。子供達は例年伊豆の海原で泳ぐのを、心待ちにしている。公威は金槌(かなづち)である。浅瀬で平泳ぎをする程度だったが、威一郎と紀子は泳ぎが達者であった。
 最近は足のつく波打ち際をうろちょろしているだけの公威を、小馬鹿にするようになっていた。
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