剣と日輪
 公威は無気力になっていた。青春を支配した全美(ぜんび)が進駐軍によって否塞(ひそく)され、堕落と腐敗が、
「民主主義」
 という衣を纏(まと)って国民を腐食(ふしょく)していく。モラルも何もかも遺物と化し、獄から放たれた共産主義者や無政府主義者共が、
「天皇制反対」
 を呼号(こごう)し、街頭を、
「米よこせ」
 と大書したプラカードを掲げて練り歩いている。彼奴(きゃつ)等(ら)は女子供を巧みに誘惑して取込み、破壊活動を平和運動等とぬかしていた。
(天地が引っ繰り返ったのだ)
 公威は現状のいかがわしさに絶望し、鼻を摘んで、ただただ勉学と執筆に勤しんだ。
 十月十日、美津子は聖心女学院二年の同級生と、焼跡の整理に赴いた。昭和二十年は残暑が厳しく、女学生達はもんぺ姿で作業中、熱暑(ねつしょ)を堪(こら)えていた。後片付けは手作業であり、可也(かなり)の重労働だった。姫(ひめ)御(ご)達は渇きに耐えかね、井戸水で喉(のど)を潤(うるお)さざるを得なかった。
 美津子は人一倍働き、何度も井戸の冷水を体内に注ぎ込んだ。美津子は帰宅後間も無く人事(じんじ)不省(ふせい)となり、直様慶應(けいおう)病院へと搬(はん)送(そう)された。
 チフスと診断されたが、慶應病院には隔離(かくり)病室が無かった。戦災で焼けていたのである。間も無く大久保の避病院に、美津子は移送されたのだった。
 公威はテスト勉強の真最中であったが、驚愕(きょうがく)して父母と一緒に、避病院迄美津子を護送した。美津子は救急車内でも、熱に魘(うな)され意識朦朧(もうろう)となっていた。
「美津子頑張れ」
「うん」
 美津子は公威の手を握り返すと、微(かす)かに応じた。
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