マリッジリング
「…あのね」

 俺が普段しない神との対話を試みていると、不意に妻が口を開いた。

「え?急に何?」
 俺は泣きそうな目を妻に向ける。
もちろんロープは握ったまま。

「橋の上で告白すると成功率高いんだって」

「はぁ」俺は顔を妻に向ける。
もちろんロープは握ったまま。

「橋の上にいると足元が危ないじゃない?その時感じるドキドキを恋と勘違いしちゃうからなんだって」

 妻は橋の下を見ながら話し続ける。

 下を見ながら話すのはこいつの昔からの癖だ。言いにくい事…喧嘩の時や、照れくさい時、悲しい事…そんな胸の内を伝える時、決まって相手と目線が合わない場所に視線を持っていく。

 それを見て俺は、立ち上がり、体ごと、気持ちごと妻に向く。
 恐怖心が薄らぎ、ロープから片手が離れる。

「ほら、私たちって幼馴染みで大した事件もなく結婚しちゃったから、ちょっとくらい私の事でドキドキさせたいなって思って、ここに来ちゃった」

「…」

「へへへ」

 そう言って妻ははにかみ、照れ臭そうに笑った。


 ちょっとくらいドキドキさせたい?


 次の瞬間、俺は妻に向かって両腕を広げ、駆け寄っていた。
 そして目の前にいるいじらしい妻を、きつく、抱きしめる。


 ちょっとくらいドキドキさせたい?バカ言ってんじゃねぇよ。


 照れ臭いから平常心ぶってたけど…お前を初めて女だと意識してから今までお前にどんだけどきどきしてきたと思ってるんだ。
 並んで歩いた学校の帰りも、夏祭りの浴衣姿も、静かに泣く横顔も、初めて触れた手の柔らかさもよく心臓が持ったと自分を誉めてやりたいくらいお前にはドキドキさせられっぱなしだよ。

 お前は今までこれでもかってくらい俺の気持ちを揺り動かしてきた。そしてこれからも、これでもかってくらい揺り動かし続けるんだ。


「バカ」

 言いたくても言葉にできない、ありったけの想いをこの一言に込める。

「バカって…」言葉を続けようとする妻をさらにきつく抱きしめる。

「生涯俺の傍で俺をドキドキさせ続けろ、このバカが」
 妻はもう何も言わない。俺も何も言わない。二人の気持ちがそっと、でも確実に寄り添う。

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