紅朧


 その日は雨でございました。
 しとしとと都を濡らす穏やかな雨。わたくしは雨の日が好きです。仁央様は朝から孫廂にお座りになって、ただじっと雨をごらんになっていらっしゃいます。わたくしは仁央様に気付かれぬようにそのお側へ参ります。柔らかい雨です。高い所にある雲から音もなく落ちて参ります。御庭へ、御池へ。

「紅朧、」
 仁央様はわたくしの姿を見ずにおっしゃられます。
 どうしてわかってしまったのでしょうか。
「詩を聞いてくれぬか」
 わたくしは仁央様の御膝に乗ります。蘇芳の指貫。

 雨が降っている。私の所にも、おそらくあなたの所にも。
 雨が私の行く手を阻む。あなたは私を待っているのに。
 待っているのに私は行けない。ならばこの雨に託そうか。
 私の中を駆けめぐる、あなたを愛しく思う気持ち。
 ほら、手を雨に伸ばしてごらんなさい。
 私の心をあなたに届ける、雨がほんの少しだけ
 少しだけ温かくなっているから。

 仁央様の低い優しい声が静かな抑揚を付けて流れました。その詩の意味はきっとこうなのですが、仁央様がおっしゃった通りにお伝えするのはとても惜しい。なぜならわたくしだけが聞いたのですから。
「紅朧」
 わたくしは答える代わりに喉を鳴らします。 
 仁央様はわたくしの頭をなでます。
 雨が降っております。
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