雨音色
「本当ですか?」


「あぁ。もう来週にでも出発して良いそうだ。早い方が良い」


野村が豪快な笑いを飛ばしていたが、牧は心から喜べなかった。


牧は、精いっぱいの愛想笑いを浮かべる。


普通であれば、それが愛想であるとは分からないだろう。


「・・・おや、あまり嬉しそうじゃないね」


野村の噂は、学生時代から聞いてはいた。


相手の動作全てを観察し、それを相手にばれないように、細かく分析する。


それだけ有能だからこそ、政府高官にまで上り詰めている人なのだ、と。


「・・・やはり、お噂通り、野村先生は鋭いですね」


牧の顔は、もう笑っていなかった。


何かを思いつめているような、そんな表情を浮かべていた。


「野村先生」


そう、牧は言いなおすと、姿勢をただし、真っすぐ野村を見つめる。


「・・・」


野村は、相変わらず笑みを浮かべ、姿勢を崩したままだった。


「・・・藤木君の留学、・・・無かったことにはしてあげられませんか」


しん、とした空気が流れた。


誰も、何も言わない。


牧の額から、一筋の汗が流れる。


とうとう、言ってしまった。


国の未来まで変えしまいかねない言葉を。


留学からかえってきたら、藤木はきっと野村を始めとする政府高官の道が用意されることになる。


藤木は、それにふさわしい人間だった。


牧が、若い藤木に嫉妬すら覚えられないのは、


彼のずば抜けた能力の素晴らしさを知っているからだった。


彼の出世を考えれば、


この留学を止めさせてはならない。


しかし、牧は既に、理解していた。


藤木の心が、どこに定まっているかを。


しばらく続いた重い沈黙の中、


近くで、夏の終わりを告げるつくつくぼうしが歌いだす。


その瞬間、沈黙を破ったのは、野村でもなく、牧でもなく。


「・・・その必要は、ございません」
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