盲目
冒頭の終焉
今これを読んでいるあなたには、好きな人はいるだろうか。
特別な好き、でなくてもいい。
友達に感じる好き、家族に感じる好き、異性に感じる好き。
とにかく、誰だって好きな人はいるはずだ。

でもきっと、あなたが友達に抱いている「好き」と、異性に抱いている「好き」は違うだろう。
友の好きと、恋の好き。
その境界線は曖昧だけれど、確かにあるはずだ。
それがない人はいない。

異性であっても、友の好きを感じる人がいるだろう。
しかし、同性に恋の好きを感じる人は余りいないはずだ。
いや、表に出さないだけで、同性に恋心を抱いている人もいるかもしれない。
なぜそれを表に出さないか。
嫌われたくないからだと、私は思う。

世間は同性に恋の好きを感じることを変に思っている。
偏見を持っているのだ。
自分が異性を好きだから、同性を好きになる人を変な目で見つめ、同性愛という名称をつける。
それはおかしいことではない。
男と女が交わって、生命は誕生しているのだから。
元来、男女という組み合わせが普通なのだ。
それを破るというのは端からみれば異端であり、「いけないこと」だ。

そうやって異物を見るような目で見られることを、人は嫌う。
友情を育んだ親友。
育ててくれた家族。
その全ての人が、自分を嫌ってしまったら。
そう思うと、私はとても嫌な気分になる。
嫌な気分にならない人がいたら、それは、それらが存在しないか、もしくはむしろ嫌っているかなのではないだろうか。

キリスト教では、同性愛を背徳行為とみなし、嫌っているらしい。
世界の条理に反しているからだろうか。
果たして、それは背徳なのだろうか。
私には疑問に思えてならない。
他の人間とは違っても、それは「愛」であることに変わりはない。
< 1 / 6 >

この作品をシェア

pagetop