コーヒー溺路線
 

「そのままです。そのお見合いを断ることはできないというのは、松太郎さんが一番解っていると思います」
 

 
「そんな、だけど」
 

 
「結婚をするまで、とは言いません。婚約をしてそれを公にしてしまえばもう二人きりでは会えないでしょう」
 


 
松太郎は酷く狼狽した。
彩子との未来をあれ程強く思い描いていたというのに、それは叶わない。
 

拳を強く握り締めた。
長くはないはずの爪が手の平に刺さる。
痛い。痛い。
 


 
「彩子は、そうしたいのか」
 

 
「……そうするつもりでいます」
 

 
「本当に?」
 

 
「……そうします」
 


 
そう言い切る彩子に松太郎はこのやり切れない想いをぶつけることができない。
 


 
「彩子、そうしたら俺は君を生涯一度も抱けないのか?」
 

 
「……」
 


 
彩子の肩が震えるのが見て取れる。
松太郎はゆっくりと彩子の隣りに移動した。彩子の震える肩を掻くように引き寄せて、ひしと抱いた。
彩子の嗚咽が耳元で聞こえた。
 

彩子の手も松太郎の背中に回されている。
 


 
「彩子、君が好きだ」
 


 
彩子の唇を貪るように松太郎が捕らえた。
涙で彩子のまつげが光る。その頬は異常に熱を持ち、涙で濡れた頬に張り付いた髪の毛を松太郎が払う。
 


 
「今日だけ」
 


 
彩子が言った。
それを松太郎は聞き取れず、もう一度言うように促した。
 


 
「今日だけです」
 


 
嗚咽混じりのその声に松太郎の胸が潰れた。
 

泣きやまない彩子を抱き上げ、松太郎が寝室に誘導する。
彩子は精神崩壊をしてしまいそうな程に泣く。
松太郎が優しく口付けると彩子はようやく大人しくなった。
 


 
「松太郎さん、助けて、苦しい」
 


 
訴える彩子を松太郎が掻き抱く。
 

肉じゃがはまだ余る程皿にあるというのに、寝室の灯だけが消えた。
 


 
< 120 / 220 >

この作品をシェア

pagetop