コーヒー溺路線
 

彩子が松太郎のことを「松太郎さん」と呼ぶ声が好きだった。
「松太郎」と呼び捨てにしないで「松太郎さん」と謙虚に呼ぶのが彩子らしい、松太郎は常々そう思っていた。
 

そのままその唇が紡ぐのは自分の名前だけであれば良いと松太郎は思う。
「松太郎さん」という一つの言葉が、彩子の一番の口癖になったならと、思う。
 


 
「やあ」
 


 
松太郎は最近毎日のようにカフェへ寄り道をしていた。松太郎の行き付けのカフェだ。
いつかきっと彩子を連れて来てやりたいと思っている。
 

相変わらず無精髭を伸ばしたままのマスターは旨いコーヒーをいれる。
 


 
「どうしたんだ。最近は毎日のように来るじゃあないか」
 

 
「ようやく暇ができたんだよ」
 

 
「そうかい。その割には疲れた顔をしているようだが」
 

 
「暇はできたがなかなか上手くいかないんだよ」
 

 
「会社員は大変なんだな」
 

 
「そういうことだ」
 


 
苦笑して松太郎は差し出された熱いコーヒーを受け取った。
今日もカウンターの端の席に座って読書をする老人男性は、優雅にコーヒーを楽しんでいるようだ。
 


 
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