翼に甘くキスをして
私が歩いていた方向に真っ直ぐ進んでいくと、両開きの大きなドアがあった。

太いレバーがグッと持ち上がって、重そうなドアが開いていく。



「わっ」



紅い絨毯、2台の黒いグランドピアノは広い舞台に置かれて。段々になっているたくさんの机の向こうには、有名な作曲家さんたちがこちらを見ていた。



「病院の音楽室と全然ちがーう」



あっちを見てもこっちを見ても豪華な音楽室。

隣の小部屋には、たくさんの楽器が並んでいた。中にはハンドベルもある。



「これ、ヒロくんと毎年やるんだよなぁ」



クリスマスには、病院内で必ずやっていたハンドベルの演奏会。今年は‥

ちょっとだけショボンとなっていたその時。



「え?」



聞こえてきたピアノの音色。

ひょこっと小部屋から顔を出せば、弾いていたのはあのヒト。


私はそっと並びのピアノのイスに座り、無心で聴いていた。

それ程に、このヒトの演奏に惹き込まれてしまったんだ。

最後の一音が叩き終わり、その長い指が鍵盤から離れる。



「歌の翼に‥」

「知ってるんだ」

「メンデルスゾーン好きです。それに、私の名前は“翼”っていうんです」

「ふーん」



ちょっとだけ、このヒトが笑ったような気がした。



「シベリウスは?」

「え?」

「花の組曲」

「あ‥カンパニュラが好きです」

「そ」



つりがね草。

ヒロくんが、私みたいだっていうの。淡い紫色が上を向いている姿は、私が窓から空を見上げてる姿と同じだって。


紡がれていく穏やかで優しい旋律は、なんとなく、私のナカをぎゅっと締め付けた。



「Ich bin mud,
schrecklich mud.」

「‥え?」



それは、メンデルスゾーンが最期に言ったとされる言葉。

『疲れたよ、ひどく疲れた』

そう言って立ち上がったこのヒトは、私の座っているイスに腰掛け、背中を私の右肩に預けた。



「なんか弾いて」

「あ、えっと‥」



私は右肩をなるべく動かさないように、音を並べていく。



「なんで“ロンドン橋”?」

「なんとなく」

「ね、もっと深く座って」



深く座ると、ペダルに足が届かないんだけどな‥って思いながら、お尻を後ろにずらせば--‥



「よし」



ポスンと、足に頭が乗った。
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