失われた物語 −時の鍵− 《前編》【小説】



僕らは黙ったまま

静かに見つめあっていた

兄の眼差しがただ温かく僕に注がれ

僕はその静けさと平穏に打たれ

涙が溢れ止まらなかった

僕の手の中には兄の温もりがあり

久しく奪われていたその温もりが

僕の心を溶かしていった



母さんが…話してくれたんだ…

兄の静けさからそれが伝わってきた

こんな安らぎに満ちた兄を

僕は初めて見たように思った

そのことが嬉しくて切なくて

僕の涙は止まらなかった






「大丈夫か…?」

兄の声に身体が震えた

「お前が倒れて意識がないって…

母さん…電話で泣いて…」

兄は途切れ途切れに話した

「母さん…話したんだね」

僕の問いに兄は微笑んで

ゆっくりとうなづいた

「俺のために…母さん…独りで

俺のために…秘密を背負ってた」

兄は目を伏せた

「お前が…ボロボロの身体で…俺の

ために泣いて…母さんを諭してくれ

たって…母さん…泣きながら話して

くれた…」

兄の目が潤んでいるのがわかった

「母さんは…普通じゃない俺のこと

みんな知ってて…普通に接してくれ

ていた…俺は多分自分はゲイだって

こと…母さんに話すことができた…

母さんは言ってくれた…あなたが

生きているだけで…もう…充分

って…」

兄は身を震わせて泣いていた

そう…きっと母は

僕と同じことを思ったんだ

兄が生きているだけで

奇跡なんだと

「"あなたはきっとあの人が人の心

を取り戻すために遣わされたのよ"

って…母さんはそう言って俺を抱き

しめてくれた…ほんとは母さんが

それを望んでいた…あの人が癒され

る日を…母さんはまだ心の底であの

人を…愛してるから」







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