椿戦記
李漢は再び孝廉を抱き寄せた。
そしてその耳元に低い声で囁く。
「俺は泰の都で何が起こっているかはわからん」
だが、李漢ははっきりと理解していた。
椿家の長子、“椿孝廉”は死んだことにせねばならない。
この世から、“椿孝廉”という存在を抹殺しなければ、この娘の命はいつまでも脅かされると。
自分の両腕の中で、気丈にも嗚咽をも飲み込んでしまった彼女を哀れに思った。
「椿孝廉は死んだ。」
孝廉は身動き一つしなかった。
「お前はもう“孝廉”ではない。いいね?それを心に叩き込みなさい」
彼女は静かに頷いた。
きっと娘は自分に追っ手がかっているであろうことを知っている。
自分が貴族から平民に成り下がったことも理解している。
そして無意識にそれを受け入れている。
大丈夫だ。
このお姫様には気骨がある―…
李漢はちょっと考えてから口をひらいた。
「ツバキ…お前は椿だ」
娘は首を傾げた。
「東の異国では“椿”という字をツバキと読むんだ。真っ赤な花の名前だそうだ。お前の新しい名前にぴったりだろ?」
李漢はニッと笑って娘の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「椿。お前は泰の都から来た俺の姪の椿だ」
「椿…」
娘はキッと李漢を見上げた。
「わたしは貴方の姪の椿です」
李漢は微笑んだ。
そして、椿の背をおして湯殿へ導いた。