椿戦記

「とりあえず……湯につかるかい?」

 李漢は孝廉の髪をすく手を止め、しげしげと彼女を見やった。

大人の男の足で一月はかかる、死海の砂漠を、この幼い少女がたった一人で歩いてきたのだ。
衣はその過酷さを示すかのように擦りきれ、引きちぎれている。

「湯につかってきな。その後は飯だな。最後に食ったのはなんだ?」

李漢は、何も答えず怪訝そうな顔をして自分を見上げている孝廉の、か細い身体を引き寄せた。

「おいおいどうした?……覚えてないのか?身体が辛いのか?ん?」

孝廉が歯を食い縛ったのがわかった。
そして流れる涙をむちゃくちゃに拭い、首を横に振った。

李漢は孝廉を抱き締めながら自分の師を思い出していた。

師・椿孝達は、始終穏やかな笑みを浮かべ、とても武人とは思えぬ、誇り高き貴族の気品に満ち溢れた賢人であった。
十四のとき、貧困から故郷の村を去り、出稼ぎに出た都で行き倒れていた自分を、拾い上げ、家人として雇い、武術を教えてくれた師。
二十二で武術の道を外れたいと願った自分の我が儘を、条件付きで許し、送り出してくれた自分の恩人。

椿家といえば代々朝廷の師匠のような武術指南を輩出する、泰国の名門貴族。

(都で、もしくは椿家で何か不穏な動きでもあったのか……)

いずれにせよ、李漢は孝廉を不憫に思った。
恐らくは、何をしたわけでもないのに、突然、自分を温かく包んでいた物を全て引き剥がされ、何も自分を守ってくれるものがない世界へ放り出されたのだろう。
急に他人に優しくされるのに、抵抗があるのかもしれない。

「好きなだけここに居たらいいんだ。これは俺と師匠の約束だからな。君が遠慮する必要は何処にもない。俺を存分に頼ったらいい」


(とは言ってもな…)

女の子なんぞ今まで縁がなかったし、湯を勧めたが、着替えの衣も肌着もなかった。
< 9 / 32 >

この作品をシェア

pagetop