ある一日
1.冷や奴
私が太宰治の本に目を通しているときに、
妻の八重子(やえこ)が言い出した。
 「白くてふるふるした物が食べたい」
 なんだそりゃ?と一瞬考えたが、それは直ぐに分かった。
 「豆腐か?」 
 「ええ、そうです。急に食べたくなったので」
 「なら、豆腐と言わぬか。そんな言い方じゃ分からんぞ。買ってくるから、お金をよこしなさい」
そう言うと、八重子は百二十円を私に差し出すと、作務衣に着替え、なじみの豆腐屋へと出かけた。
 町並みを見ながらゆっくり歩きながら、ふと気づく。こんなにもこの街は大きくなったものかと。東京オリンピックを境にあちこちとビルや外国産の店が立ち並ぶようになり、
車の数が次第に多くなり始めた。大きく変わることは良いが、悪いことも出てくる。公害で人々の身体を悪くなったり、治安の悪化も懸念されている一方だ。タバコに火をつけ、
この街はどうなっていくのだろうと考えながら豆腐屋を目指す。
 掘っ立て小屋にセメントを塗ったような建物がなじみの豆腐屋だ。この店に通って十年になるだろう。「ごめんよ、親父さんはいるかね?」と声をかけると、若い男が、威勢の良い声で出てきた。
 「親父さんはどこだい?」
 「旦那でしたら出かけておりまして、しばらくは帰ってこないですよ」
 「そうかね。では豆腐を貰おうか。妻に頼まれてね」
 「木綿にいたします?それとも絹ごし?」
木綿・・絹ごし・・・はて、いつも食べてるのはどっちだったか?いつも料理をするのは八重子であり、私はただ新聞に目を通したり、小説を読みながら飯が出来るのを待つ身なのだ。頭をかき、天井を見て考えている内に若い男が言い出した。
 「あの~早く決めて貰いませんか?」
 「今どっちか決めているところだ。もう少し待て。木綿・・・絹ごし・・・」
 「たかが、木綿と絹ごしでしょ。そんな悩むことじゃないでしょうに」
 「馬鹿者!木綿と絹ごしの味が違うのはお前も知っているだろうが!それをたかがで済ませるのはどういうことだ。もし間違えてしまえばその日の飯は台無しになる。良いからも少し考えさせてくれ」
「はぁ・・・なんでもいいですけど、早く決めて下さいよ。でなきゃこっちも飯にありつけないのですからね」
そう言うと、若い男は腕を組みながら私の様子を見ている。私は一方に決められないまま外の方へと向かった。場所を変えれば、気分も変わるし、考えもまとまる。タバコに火をつけ、日差しが残る赤土で考え始めた。
ちりんちりーんと自転車のベルを鳴らしながら、運転する男が近づく。知り合いのお巡りだ。お巡りは私の顔を見ると、自転車を降りて「どうかしたので?」と話しかけた。
 「これは、本官さん。いかがされましたか?」
 「いや、貴方がタバコを吹かして空を見ていたものでしてね。その光景は幾度も見ましたから、まさかと思いましてね」
 「そのまさかですよ。私はとても悩んでいるところですよ。もし、よければ本官さんの意見も取り入れたいところです」
 「ほほう。私で良ければ協力いたしますよ。
それで、一体何をお悩みで?」
 「うむ、実は妻から豆腐を買ってきて欲しいと言われ、店に来たのは良いのですが、あの若い男が木綿と絹ごしどちらに致しましょうとか聞いて来るモノだから悩んでしまいましてね。私とてあまり時間を割いてられないものですので、早急に決めたいしここで間違えると飯も美味しくない」
 「なるほど、確かにこれは由々しき問題。
しかし、あえて間違えて別な楽しみ方もあると本官はそう思いますがね。いつもの飯にすこし味をつけるような感じで。そういうのは気にくわないタチですか?」
 「確かにそれもいいかもしれない。けど、私は元来その食べ方を続けていたのですから変えたくは無いのですよ。ここで変えてしまうと、慣れ親しんだ味覚が変わり、馬鹿になってしまう。保守的な考えになりますが、私はその味を大切にしていきたいのですよ」
「ふむ、それも納得できる意見ですな。それで、貴方は今お金は幾ら持っているのですか?。金額が分かれば、どれを買えばわかるはず」
「百二十円ですよ。私は自分で金を持ち歩くことはしないですから」
「となれば、豆腐屋さんに値段を聞いて、その分だけ買えばよろしいと思います」
その言葉に納得した私は、豆腐屋に戻り、若い男に声をかけ、「豆腐の値段は幾らだね?」と聞いた。若い男は、
 「木綿が六十円、絹が七十円でございます」
これを聞いた私はしめた!と思った。この値段なら迷うことはない。木綿を二つ買い、八重子に渡せば良いのだ。
 「木綿を二つ貰おうか」
 「へぇ、毎度。で、木綿は小さいのと大きいのとどちらがいいですか?」
 「なぬ!?大と小があるのか!?そんなの聞いたことは無いぞ!!なぜ、それを言わない」
 「いや、だってそういうこと一言も言わなかったですし・・」
 「むむ・・・これは困った。こんな事は初めてだ・・・本官さん本官や」
 「何でしょうか?」
 「大変なことが起きましたぞ。本官さんは豆腐に大と小があることがご存じですか?」
 「さあ、よくは分かりませんが、あるのでしょう。今度はそれでお悩みですか?」
 「ええ。これはまさかの出来事ですよ。普通、豆腐に大小は無いんじゃ無いかと思うのですがね・・・」
「ふむ・・・あ~君。ここの豆腐はサイズ別に売ってあるのかね?偽装とかそういうのではあるまいな?」
 「ぎ、偽装!?冗談言わないで下さいよ。
うちは元来手作りで豆腐を作ってるんですよ。
お客さんのニーズに合わせた物を売っているんです。それを偽装で済ませるんであれば、幾らお巡りさんとは言え許せないことですよ」
 「そ、そうかね。これは失敬した」
お巡りは慌てて若い男に謝罪をし、私の方を見た。若い男は苛立ちながら私の方を見て、
早く決めろと言わんばかりだ。
やれやれ、どうしてこうなったか・・・そもそも大小が無ければこんな事はならずに済んだものの・・いや、私が早急に決めないからか?もういい、決めてしまおう。つまらん意地を張るのも良くない。
 「木綿の大を二つ貰おう。あと、醤油も貰おうか」
その言葉を聞いたとたん、若い男は嬉しそうに「へい、毎度!」
「幾らだね?」
 「醤油はおまけして、百二十円です」
 「すまんね、いろいろ待たせてしもうて。本官さんもいろいろ付き合わせてもろうて申し訳なんだ」
 「いやいや、お役に立てればそれで十分ですよ。では、私はこれで失礼しますよ」
お巡りは自転車に乗り、ベルを鳴らしていずこへと走り去って行った。
 「しかし、決めるのにえらい時間がかかりましたな。奥さんでしたら、ぱっぱと決めて
すぐ帰りましたのに。買い物慣れしとかないと、奥さんに先立たれたら大変でっせ」
 「仕方無かろう。普段買い物をしない者にとってこういう経験は冒険みたいな者だ。お前さんとてこういうことはあるだろう?」
 「いえ、私は恐妻家なので買い物とか自分ですることが多いのですよ。それに家でも私が料理することが多くて」
 「普通、料理は女がするものであろう。いやはや嘆かわしい・・・」
 「それは昔のことですよ。今は男も料理が出来ないと嫁のもらい手なぞないですよ」
 「私はとうの昔に結婚しておるし、銀婚式も迎えた。女房も別れる気なぞない。それに私は古い時代の生まれだからな。まぁ、料理なぞいざとなれば出来んことはないわ。じゃあ、これにて失礼するよ」
豆腐屋を後にし、私はそろそろと夜を迎える空を見上げながら家路についたが、あまりにも遅いと八重子に怒鳴られ、しかも、豆腐が違うと責められ、怒鳴られるというさんざんな結果に逢い、改めて妻が怖いという認識を表に出させた印象だった。やれやれ・・・普段、家事に追われているからたまには手伝ってやろうと考えたものだが・・買い物するのはタバコと酒だけにしようと改めて心に誓うのであった。
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