六天楼の宝珠〜亘娥編〜
 真っ直ぐこちらを見下ろして来る黒い瞳は、強い怒りを伝えて余りあった。

 背筋が凍る思いをしながらも、この表情は以前にも見た事があると記憶を巡らす。

 同じ目をしている。榮葉との関係を疑って彼女が嫉妬を爆発させ、さらに彼の方が怒って寝台に押し倒されたあの時と。

 違うのは、今回夫は自分に触れていないという所だった。

「私がいるだけでは駄目なのですか」

「──だって、貴方のお母様なのでしょう。他人ではありません」

「あれは母親などではない」

 ようやく碩有自身の口から出た季鴬についての言葉は、衝撃的なものだった。

「噂なら聞いたでしょう。その通りなのですよ。取り戻せもしない過去に縋り、周りの事など顧(かえり)みもしない。亡霊と言うに相応しい──あの人の時間は、もう止まったままなのだから」

 碩有は立ち上がり、「話がそれだけでしたら、お帰りください」と庭にいる侍女に顔を向け促した。

「仕事に向かいますので」

 またいずれとも言わず、妻が房を去るのを黙って見送る。

「──奥方様」

 余所余所しいばかりの態度に、触れられる事も。

 すぐ傍にいるというのに、触れる事も叶わないなんて。

 侍女の問いかけに何も言わず来た道を引き返す翠玉の目元から、小さな雫が零れ落ちていった。
< 34 / 77 >

この作品をシェア

pagetop