夏の空を仰ぐ花
『それだけは忘れるなよ、翠』


翠。


父が付けてくれた、名前だ。


「……っ」


やばい。


あたしは慌てて口元を左手でふさいだ。


目の奥がぐっと熱くなって、胸の底からあらゆる感情が一気に込みあがる。


今、少しでも声を出したら終わりだ。


そう確信した。


一滴でも声を出したら、その瞬間に大声を上げて、あたしは泣いてしまうだろう。


「……っ」


必死に涙をこらえる。


春の夕陽に、横顔のシルエット。


これほどまでに優しい色の空を見たのは、たぶん、初めてで。


あたしの胸中は今、温かい光によって満たされていた。


父も、この南高のグラウンドのあの場所で「甲子園」を目指していたのだろう。


あの優しい瞳の奥に、たくさんの希望と未来をひた隠して。


あたしは目にため込んだ涙を、左腕でぐいっとこすった。


ロンTの袖にマスカラとアイライナーが付着して、黒く伸びていた。


「夕陽が目に染みるぜ、父」


空の袂に夕陽が溶け出して、幻想的な優しい色をしていた。











補欠。


あたしたちは、あの夕陽の下で出逢う前に、出逢っていたんだよ。


あの時、見上げた空に、何を見ていたの?


あたし、まだ知らなかったんだ。


同じ空の下で、同じ時間に、同じ場所で。


補欠に出逢っていた事に、まだ、気付いていなかった。


あたし、あの日からずっと、見つめていたんだ。






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