硝子の破片
情けない妄想もいい加減にしろ。


正樹は壁に向かって、枕を放り投げる。


勢いよく叩きつけたつもりが、気の抜けた音がしただけで、虚しさは消えそうにない。


『結婚するの。私、結婚するのよ』


そう言って、微笑んだ菜々子の横顔が脳裏にくっきりと浮かび上がる。


もちろん、菜々子の結婚報告に正樹は衝撃を受けた。


二十年あまりの長い時間、自分は彼女のことを陰ながら愛してきたのだ。


しかし彼女に手を出さないと誓った以上、いつかこんな日が来ることはわかっていた。


菜々子は今年で27歳になる。いつまでも独身でいるわけにはいかない。


紹介された婚約者も問題ないように思えた。人がいいと言えばそれまでの平凡な男だった。


正樹が絶望したのは次の告白を聞いてからだ。


『あのね…本当はずっと…』言い淀んで、瞼を伏せる菜々子。


その後に続く言葉は、自分に対する告白に違いないと、正樹は期待を抱いた。


複雑な事情があり、菜々子への気持ちを忘れようと努力してきたが、互いに愛し合っているのなら致し方ない。


優しさだけが取り柄の婚約者には悪いが、菜々子を奪う覚悟も出来ていた。


だがその数秒後。


彼女は正樹の自尊心を粉々に砕く台詞を口にした。


自分がこの世界で最も嫌っている男の名前を、だ。


『私ね…本当は…ずっと春樹のことが好きだったの』
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