はぐれ雲。
幸恵が靴を履く娘の後ろ姿に言った。

「博子、ちゃんと食べなさいよ。無理してでも、食べなくちゃ」

この前会った時よりも、随分痩せてしまった娘が心配だった。

「わかってるって、お母さん。本当に心配性ね、老けるわよ」

幸恵はタッパーの入った手提げ袋を手渡す。

「筑前煮。多めに作ってたから。達也さんにもよろしくね」

「うん…ありがとね」

笑顔まで痩せてしまった気がする。

突然やってきた娘に、何かあったのは母親の直感でわかった。

けれど、彼女は何も言わず明るく振舞う。
もう大人なのだから、そう思ってあえて聞かないことにしたが、やはり心配だった。

「また、来るね」
子どものように手を振って、博子は実家を出た。


外の暑さに目眩がする。
蝉の声もうるさいくらいだ。

もう何もかも忘れてしまいたかった。

このまま全てを捨てて、見知らぬ土地で違う誰かとなって生きていけたらどんなに楽だろう。

達也の自分に向けられた不安げな言葉も、AGEHAでの亮二の言葉も、みんな夢だったらいいのに。

ううん、自分が生きていることすら幻だったらいいのに。

アスファルトから立ち上る熱気に、気が遠くなりそうだった。

官舎は実家から歩いて20分程の距離だったが、果てしなく遠く感じられた。


やっとの思いで、自宅前の坂をあがる。

官舎の入り口に人影が二つ。

博子は目を細めた。

後ろ姿だけだが、一人は長髪で会社員風。
もう一人は金髪で、派手なオレンジのアロハシャツ。

しきりに官舎の庭をのぞいていた。

「あの、何か御用ですか」
博子が背後から声をかけると、二人の男は大げさなぐらい驚いて振り向いた。

「あ!」
金髪男が、博子を指差す。
「ビンゴ!」

「こんなところまで押しかけて、申し訳ありません」
すぐに会社員風の男が深々と頭を下げた。

二人とも玉のような汗をかいている。

彼らのことは知っていた。

AGEHAからここまで送ってくれた男たちだ。

「…何なんですか、一体」

博子はあからさまに迷惑そうな顔をした。

「加瀬さん、少しお時間いただけませんか」

「お断りします」
二人をかわして、博子は歩き出す。

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