AKANE
「礼には及ばぬ。あの愚王ルシファーのすることだ。何かただやらぬ恐ろしい事を企んでいるに違いない。こちとて、その邪魔だてをする程の快哉は無い。それに、我がサンタシの国土内に薄汚い足を踏み入れ、聖域なるセレネの森を踏み荒らしたとなると放ってはおけぬ」
 難しい顔をするヴィクトル王の顔には確かに怒りの色が見えた。
「ルシファー・・・」
 思わず小さく口をついて出てしまった言葉に、朱音自身も驚いて唇を覆う。
 その声を聞き逃さなかったフェルデンは、朱音の耳の傍で静かに囁いた。
「魔王ルシファー、憎きゴーディアの王であり、強大な魔力を持ってして魔族を率いる恐ろしい男だ」
 この男の名を聞いた途端、なぜか懐かしい気がするのは、元いた世界でも魔王ルシファーの名を何度か耳にしていたせいだろうか。ただ、朱音の知っている魔王フシファーは、実在しない想像上の人物である。
「まったくもって、あの男の考えていることは理解できぬ。この両国の緊迫した状況を知っての行いだとすれば、これは停戦を打ち止める宣戦布告と見なすこともできるというに」
 椅子の肘掛の外にひらりと長い衣の袖を降ろすと、ヴィクトル王は肘をついて小さく溜め息を漏らした。
「時空の扉を開く為だけに敵国の地に侵入してまでのことです。アカネを連れて来たにはそれなりの理由があるとしか考えようがありません」
 フェルデンの的を得た意見に、王はうむと頷く。
「そちと同意見だ。ロラン、フェルデン、そなた達にアカネを任せよう。ゴーディアにとって重要な鍵となるこの娘を決して敵の手に渡すのではないぞ」
「仰せのままに」
 二人は王に向き直り、膝をついた姿勢で礼の形をとった。
 王はすっと椅子から立ち上がると、艶やかな刺繍の衣を翻しながら部屋を後にして行った。



「どうかなさいました?」
 エメが心配そうに朱音の顔を覗き込む。
「あ、何でもないです。ちょっと考えごとを」慌てて首を振ると、朱音は気ちを振り切るように甘い菓子をぽきんと割って口の中に放り込んだ。
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