桜が散るその日
 この何にもないような真っ白い世界で、このぬくもりだけが確かに存在するもののように思えた。
 目が焼けるぐらい眩しい光の中で、唯一目を開いて見ることが出来るもののようで、嘘の中に唯一ある真実のよう。
 このぬくもりに触れた奏は、このぬくもりを手放すことなんて出来なかった。
 だからといって、上着を借りた奏が自分の上着を貸すわけにはいかなかった。
 それならと、奏は体を彼に寄せる。布越しのぬくもりがいつも以上に暖かい。
 若干驚いたように桜田の肩が揺れた。
 眠るように目を伏せていた奏は、彼を見上げる。見上げると言うほど、彼は高いところにいたわけではないけれど、なぜかその表現がぴったりだと思った。
「そんな顔しないでよ。風邪、ひかせたくないのでしょう?」
彼が眉を寄せて迷惑そうな顔をしているものだから、奏も拗ねたような顔をする。もちろん、本当に拗ねるわけがない。だって、彼も嫌がっているわけではないと伝わっているから。ただ、本当にどうしていいのかわからなくて戸惑っているだけ。勘違いしてしまうのは表情が乏しいから。
 この真っ白い雪だっていろいろな顔を見せてくれるというのに、彼の表情はどう考えてもそれより少ない。
 とん、と彼の肩に頭を乗せる。奏の絹のように柔らかい髪の毛がまるで蜘蛛の糸のように、彼の体を滑り落ちる。
 彼といるときは自然体でいる奏は、髪をあげることはもちろんしなかった。
 奏が彼の様子をうかがうと、やはりいつものように空を見上げていた。奏も彼の視線をなぞるように空に目を向ける。
 どこまでも青く広い空を、厚い灰色が覆っていた。まるで、その先に隠しておけなければならない秘密があるかのよう。
 奏はこの雲が好きではなかった。
 どうして、空を隠してしまうの?自由な空を見上げることを邪魔するの?
「どうして、空を見上げるの?」
そんな言葉が、奏の口からこぼれた。またかとでも言うようなため息が、すぐそこからした。白い白い彼の反応は、今朝まで見ていた夢のように自然にとけてしまった。
 ため息もつきたくなるだろう。奏自身も、自分が言ったことに呆れてため息が出てきてしまった。それもやはり、空気にとけて今はどこにいったかわからない。
 この質問は奏によって何度もくり返されていた。そして、何度も同じ答えを与えられる。
 まるで壊れてしまった蓄音機が、何度も何度も同じ場所を再生するような、そんな感じだった。
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