one day
 僕は、知らず知らずのうちにすっかり興奮して自意識過剰気味になっていた。誰かが、いや、多数の人間が僕の事を監視し、逐一チャンスを狙っていると思い込んでいた。言うなれば、まな板の上の鰆か。いや、あれは鰆じゃない何か別の魚だ。たしか淡水魚だ。しかしなぜ鰆なんだ?違う、そうじゃない。しかし、何のチャンスを?とりあえず、此処には居たくない。だが、どこに?
 不意に誰かの気配に気付く。丸い眼鏡をかけた老婦人が怪訝な顔をしてこちらを伺っていた。その瞬間、僕は尋常じゃないくらい震えた。巨大な携帯電話のバイブレータくらいに。そして今いるところがエレベーターの中だと理解した瞬間、とても汚い言葉を、そこにいる彼女に吹きかけたい衝動に駆られた。丁度パンチドランク・ラブの主人公のような発作が。しかし、僕はそれらを言わずに済んだ。それは、そのババアの、尊敬と感謝の念を込めてこう呼ぶ事にする、右ストレートが僕のチンにフック気味に当たったからだ。そう、何故だか知らないが彼女は今の僕に一番必要な事をしてくれた。
 メッセージ付きエンジェルシット。僕はそこに倒れこんだ。

 一瞬で意識を無くした僕は幼い頃に住んでいた南の島の夢を見た。それは夢というよりは記憶に近いものだった。幼い僕は、その島の全てのハイビスカスの蜜を吸いとるのが仕事のように、片っ端からチューチュー吸っていた。とにかく吸いまくった。花をむしり取り、花の裏側から吸って、花を捨てる。吸って、捨てる。花が全てなくなるか、もしくは誰かが来るまで続けようとしていた。
 そして大きな台風が島を直撃していた日に、映像は変わった。僕は家の中に居た。ベランダの窓から、激しく降りつける雨を眺めていた。外の世界は小さな子供にとって、恐ろしく、魅力的だった。暫くすると、藪か林の中の一本道を大きな体の大人の男と小さな女の人が海の方向へ歩いていく姿が見えた。僕の後ろで母が何か言った。多分、「あらあら」とか「大丈夫かしら」とかだと思う。僕はどきどきしながらずっと見ていた。やがてその人達が見えなくなっても、僕はずっと窓の外を眺めていた。音はなく、とても静かだった。僕はずっとここに居たいと願った。
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