ボーカロイドお雪
プロローグ 歌えないカナリア
 あたしは歌を歌えないカナリアになってしまった。
 朝洗面所で鏡に映る自分を見るたびにそう思い知らされる。別に歌は忘れたわけじゃない。
 なくしてしまった、いや奪われてしまったのだ。自分の喉に横に一文字に走る傷跡が嫌でもその事を思い出させる。
「今日は学校行くの?出席だけはしておかないと卒業できないわよ」
 お母さんがいつものしかめ面でそう言う。あたしはいつも肌身離さず持っている掌サイズのPDAのキーを叩いて、横を向いたまま画面をお母さんの顔の前に突き出した。
『行くよ』
 あたしの喉の声帯は完全につぶれていて声を出す事が出来ない。アーとかウーとか、そういう音さえ出せない。ただヒューヒューと風が節穴を通る時のような音がかろうじて出せるくらいだ。
 あたしは二階の自分の部屋に戻って学校の制服に着替え、階段をとんとんと降りて一応ダイニングルームへ行く。用意してあったコーヒーだけを素早く飲み干すと「行ってきます」の合図としてテーブルを三回拳でコンコンコンと叩く。
「あら、またコーヒーだけ?たまにはちゃんと朝ご飯食べなさい」
 母の小言を背中で聞き流しながら、あたしは頭の横まで上げた右手をひらひら振ってそのまま玄関から逃げるように外へ出た。
 一人娘が声を失った事に、両親はあまり同情的ではない。そりゃ、気を遣ってくれてはいるけど、どこか身から出た錆だという態度が透けて見える。確かにその通りだから、あたしはなんとなく自分の家の居心地が悪い。
 もう七月だけどあたしの首には薄い水色のスカーフが巻いてある。普通なら校則違反だけど傷跡を隠すためだから学校は特別に許可している。
 高校に入学した直後にあたしは永遠に声を失い、普通の女の子が望む青春だとか幸せな将来だとか、そういう物には無縁の存在になってしまった。きっとまともな恋愛だって無理だろう。話す事が出来ない女の子を本気で好きになってくれる男の子なんてこの世にいるもんか。
 そう思ったら途端に学校に行くのが億劫になってきた。あたしはいつもの様に制服のままサボる事に決めた。となれば、行先はあそこしかない。
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