夏の日の終わりに

おばちゃん

 その日は林医師とのこんなやりとりから始まった。

「今日から車椅子に乗っていいですよ」

 今まで慎重だった林医師から、そんな言葉が飛び出すとは思ってもみなかった。まさに晴天の霹靂だ。

「ほんとに? 今日から、今すぐ乗っていいの?」

「うん」

 今の僕にとっては、その言葉に勝る喜びはない。飛び上がりたいほどの衝動で胸は満たされた。

 林医師は何も言わず病室を出ると、すぐに手ずから車椅子を押して戻ってきた。

「さ、乗ってみて」

「はい」

 大きな車輪が二つと申し訳程度の前輪が付いただけの小汚い車椅子だ。しかし、僕の目にはなによりも眩しく映る。それは初めてバイクを手にしたときに勝るとも劣らないほどに思えた。

 恐る恐る車椅子の肘掛に手を置き、体操選手のあん馬のように体を持ち上げて椅子に腰を沈めてゆく。やがて収まると、珍しく優しい顔で見下ろす林医師が促すように手のひらを泳がせた。

 手すりに手をかけ力を込める。

 ズっとリノリウムの床をこする音と共に、あっけなく車椅子は前に転がりだした。

(おおっ!)

 景色が流れる。たったそれだけのことで僕の胸が躍る。

 振り向いて林医師に笑顔を見せると、彼も満足気に頷いた。そのまま僕は廊下へと飛び出してゆく。目指すのは理子の部屋だった。

< 42 / 156 >

この作品をシェア

pagetop