澪の海
マドンナ
ああ、そうだった。ここはアパートじゃなかった。帰ってきたんだった…と私は思った。目覚まし時計の鳴らない不自然な目覚めに、あわてて布団を跳ねのけた直後だった。朝からよく陽のあたる東南向きの窓。一階の台所で母が鳴らしている、なんともノスタルジックなまな板を叩く音。遠くからかすかに聞こえる船のエンジン音。ちょっとけたたましいカモメの鳴き声。自分の家の、自分の部屋の、自分のベッドの中なのに、まだほんの少しだけ違和感を感じていた。十年間勤務した東京の会社を辞めて、私はこの故郷の町へ帰ってきたのだった。東京ではサボっていた習慣だったが、とりあえず窓を大きく開け放ってみる。「朝の空気は体にいい」と言っていたのは、死んだ婆ちゃんだったか、爺ちゃんだったか……。
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